不倫を終わらせたくない 愛人を失いたくない
不倫が終わろうとしている。いや、それはできない。私は彼女との不倫恋愛を終わりにしたくはない。
もっともっと、ずっと愛華を愛し続けたい。そんなこと男の欲望が主導するだけの身勝手な支配欲でしかないのに、それを不倫ではなく愛だの恋だのと言い換えているだけの愚かさである可能性も認識している。けれども、そのときの私は愛華という愛人を、あるいは愛華という肉体が自分のものでなくなる瞬間は恐怖でしかなかったのだ。
人は〝失う〟という恐怖を様々な対象に向けて生み出す生き物だ。
金、仕事、名誉、時間、幸せ、健康…いろんなものが同等に一番でありながら、人生のいくつかの機会において失えば自分であることまで失ってしまいそうなほど大切なものがある。
――今までの人生で、これ以上の失う怖さを覚えたのは初めてだったかもしれない。
それはきっと、仕事での成功と既婚による安定に甘えて生きていたツケみたいなものなのだろう……。
心が今まで味わったことの無い恐怖心と震えで、なんとも言えない感覚に襲われた。
「愛華に会いにいかなくては……」
「関東方面には台風が近づいている」と、テレビから流れるニュースで知った。
「また台風か…」
その時までは平凡な日常の中にいる自分だったが、不意に自分のスマートフォンを見るとラインの通知が1件表示されていた。そして開けば…
「体調は大丈夫? 気候の変わり目、風邪などひかないでね」
それは愛華からのトークだった。その瞬間、愛華から言われた言葉を思いだし心がひどく動揺した。
「少し落ち着いて考えてみて。私たちの今後のことや自分の将来も…だからそれまでは、お互い会うのよそうか?」
出張や雑務を理由にして、あえてその言葉の本当の意味や、彼女の気持ちを考えるのを避けていたかもしれない。もっと言えば、その先に愛華の口から出てくる言葉が怖くてこわくてしょうがなかったのだ。
「考えてみて…」そんな言葉の答えを探す間もなく、札幌行きのチケットの手配をしていた。羽田空港に向かう電車の中や飛行機の中でも、何度も何度も「答え」について考えてはみたが結局そこにはたどりつかなかった。ただ、頭の中を埋め尽くすものと言えば、愛華との出会い、彼女が放った言葉、そして愛人としての愛華の肉体だけだった。
空港駅を発車してから、愛華は暗い窓の外を眺めて一言も発しなかった。
私がその姿を隣で眺めていると、愛華は窓ガラスに映る私の顔を目線だけ合わせ無表情で見ていた。聞こえる音は、列車の駆動音だけでそれ以外は何も聞こえなかった。
電車が恵庭駅を出発した時に、不意に愛華が話し始めた。
しかし、視線はまだ暗い外を眺めたままだった。
「あと2ヶ月もすれば北海道は冬だね…」
「また半年、雪に覆われる生活だね」
「懐かしいね、一緒に雪祭りに行った日が」
「来年の雪祭り行こうか?」
「そうだね……」
途切れ途切れの会話が、より一層、静けさを強調しているようだった。
「愛華、明日休み?」
「うん」
「じゃ、月曜日から仕事なの?」
「そうだよ」
「愛華…結婚しようか?」
「そうだね、はぁ?何言ってんの? 軽く返事しちゃったけど、あたま大丈夫?」
愛華は凄く驚いた様子で、私の方に体ごと振り向き、熱が無いか手の平で私のオデコを触ってる。
「大丈夫だけどさ、そうでも言わないとずっと外ばかり見てるから」
「出た!結婚誘導作戦。それ不倫相手には違反だ。でも、うれしいかも!」
その言葉の最後を言い終える瞬間、札幌駅に到着することを知らせるアナウンスが車両内に響き始めていた。
「何か言った?最後の方、聞き取れなかった」
「別に……ほら、札幌駅に着くってさ!」
本当は全部聞こえていた。嬉しいのはこっちの方だった。
不倫関係の終止符を打たれようとする怖さを理由に、結婚という二文字を悪用して支配欲を満たし続けようとした自分。本当は離婚なんてするつもりもないくせに……
男なんて卑怯な生き物だ。と…男である自分が自分を見下げていた。